RTAプレイヤーですけど、こういう発信をしてもいいよね?
どうも皆さん、こんにちは。Wisteriaです。
AM4時、近所の吉野家が開店し「朝食食べるか~」となってお出かけして、その帰り道Youtubeで僕の好きな曲の弾いてみたを聞いていたところ、「俺の人生に結構大きな影響を与えてる作品ってあるな。それをまとめてみたら意外と共通点とか見えてきて面白いかも」と思い付き、AM6時に筆を取っています。
というわけで今回は題の通り、私Wisteriaに大きな影響を与えてきた作品についてご紹介したいと思います。
まず今回はその①として、今後折を見て②以降も書いて行きたいなと思います。
なお本記事はネタバレを含みますが、ネタバレ込みでもプレイして楽しめるよう、できる限り配慮を以て記述しているつもりです。どうぞよろしくお願いいたします。
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『サクラノ詩 -櫻の森の上を舞う-』
僕がこのブログを書こうと思ったきっかけです。
この作品は枕より2015年10月23日に発売された18禁恋愛アドベンチャーゲームです。
まず、18禁ゲームと聞いて「あ、こいつエロゲ好きなんだ」と思った方
ちょっとお待ちください。待って、閉じないで。
エロゲーの世界、実は世間一般が思っている程 ”欲に支配された世界” ではありません。
大多数の一般の方々が想像するエロゲは、エロゲ界において「抜きゲー」と言われる部類です。
しかし、その他にも官能小説のような"シナリオに重きを置いた作品"、没入感に特化しキャラとの恋愛を楽しむ"キャラゲーの作品"などなど、18禁と言えどすべてが”抜きゲー”に通じているわけではないのです。
その中で今回紹介する『サクラノ詩 -櫻の森の上を舞う-』は、エロゲ界隈の中でも群を抜いて"シナリオに重きを置いた作品"であり、エロは個人的にはオマケのような内容となっています。
さて、ではこの作品はいったいどういう物語なのか。
主人公は草薙直哉という高校の3年生の男子です。
彼は草薙健一郎という世界的に有名な画家を父に持ち、生まれ持った天賦の才と父からの英才教育により、幼少期には「神童」と言われるほどの実力を持った芸術家となります。
しかし、物語の開始時点。彼は「絵を描かない美術部員」として有名になっています。
そこから、全6章を使って「彼がなぜ絵を描かなくなったのか」「彼が絵を描くのは何のためなのか」などを、それぞれ1章ずつフォーカスされたヒロインとの恋路を描きながら紐解いて行く…というのが大まかな流れとなります。
この作品をプレイした当時、僕はちょうど18歳になった頃でした。
自分はこの時、声優の養成所に通っており、「人に見せるもの」について多感な時期だったのもあり、この作品と出会い、自分の中で「人に見せるとは何か」ということの一つの答えを得たと感じています。
この作品のメインシナリオライターであるSCA自さんはこの作品も含め一癖、二癖ある文章を書かれますが、この作品は哲学的な側面から「"芸術"というものがどうあるべきか」ということを強くテーマにして描かれていると自分は感じています。
物語の中で、"自然の事象を本人の意思とは反して絵として実体化してしまう"、いわば 「絵の具現化」という、芸術において"神の領域の力"を持つ女の子が登場します。
終盤、その子と直哉が"芸術の神様とはいったいどんな神様なのか"という会話をした後に、その後の第6章において主人公の直哉はその神様についてこんなことを言っています。
俺の神さまは、人と共にしかあり得ない。
絶対的な存在ではなく、何も調停しない。
裁く事もなく、罰する事もなく、また許す事もない。
でもさ、だからこそ、弱い神は人と共にある。
芸術とは、見たものによって、再び生まれ直さなければならない。見たものによって、生まれるからこそ、芸術には意味があるってさ。
美は、見るものにとって再び発見される。美は、見るものによって生まれ変わる。その時、神がいるんだよ。
だが、人が美と向き合った時、あるいは感動した時、あるいは決意した時、そしてあるいは愛した時、その弱き神は人のそばにある。
人と共にある神は弱い神だが、それでも、人が信じた時にそばにいる。
芸術作品は永遠の相のもとに見られた対象である。
そしてよい生とは永遠の相のもとに見られた世界である。
ここに芸術と倫理の関係がある。何も、永遠の相を保証するのに、絶対的な神なんていらない。
人は、人のための神を感じ、そして、感動すればいい……。
弱い神は、かよわき人々の美の中にいる。
だから、そのかよわき神には意義がある。
天才の女の子は、”天才”であったからこそ、
「芸術の神様とは、”美”を絶対の象徴として、誰が如何なる時に見たとしても常に揺るがない不変的なものとする神」だと言っており、それと相対して主人公である直哉は「人間が美と向き合った時に、何もせずただそこにいる可変的な神」であると言っています。
言語化するのが難しいんですが、僕はこれを読んだ時に初めて「見る側にとって”表現者の価値観の押し付け”ではない、作品とは常に見る人、感じる人のためのものであること」が表現者として凡人である僕(弱き神と共にある人間)には必要なのだと感じました。
その時までは自分の中でふわっとした存在であった”見る人の気持ち”や”客観視”というものについて、改めて深く深く考えさせられるきっかけとなったことを覚えています。
それ以降、僕の中で今迄「価値観の押し付け」であったお芝居をやめ、「”台本”というベースを元に、この台本の中に生きるキャラクター達が何を思い何を感じるか、そしてそのキャラクター達の思いを見る側に伝える、更には見る側がこの作品から何かを感じ、思う」世界を作り出すことを意識してお芝居をするようになりました。
そういう意味で、この作品は僕の人生の中で大きな影響を与えた一つであると感じています。
この作品から得たこの価値観は今でも変わっておらず、僕は人前で何かを披露する時、人に対して何かのコンテンツを提供する時は、この「見る人、感じる人のため」という考えが常に念頭にあります。
余談ですが、僕がこの作品でもう1つ好きなポイントがあります。
それがこの作品そのものの魅せ方です。
この作品、先ほど申し上げた通り全6章なのですが、5章までそれぞれ1人のヒロインを攻略対象としてお話が進行して行き、その章が終わると一定の分岐点まで戻り、前の章のヒロインとは結ばれなかった世界線へと戻ります。
オムニバスであり、パラレルであるといったような構成になってるんです。
その中で重要なのが、第6章。
物語の中で「True End」にあたるこの第6章に辿り着くには、この"草薙直哉"という主人公が、ヒロインの誰とも結ばれることなく、孤独なまま、”芸術”と向き合い続けたルートに入る必要があるのです。
エロゲでヒロインが存在するのに、草薙直哉という一人の芸術家が辿り着くべきゴールはそれらどの世界線とも違う道である…というのが、当時のWisteria青年にはとんでもなく印象的でした。
というわけで、僕に影響を与えた1つ目の作品
『サクラノ詩 -櫻の森の上を舞う-』でした。
OPだけでも世界観にかなり引き込まれると思うので、ぜひご覧ください。
P.S. 続編のサクラノ刻、やらないといけないと思い続けてるのですが、まだ重い腰が上がりません。こういう作品って途中で投げ出せないから、最初が一番腰が重いんですよね。そのうちやります。